ボーヌで一番有名なのは、カラフルなタイル屋根のホスピス。ブルゴーニュ地方でよく見かけるデザイン様式のこの建物は、これまで写真で何度も目にしていていた。一度行って見たいとずうっと思っていたのだが、近いのでかえって訪れる機会を逃していたとでも言おうか。
さて。そのホスピスだが、フランス語にはHの発音がないので、ホスピスとは言わずオスピス。現在博物館になっているボーヌのものはオスピス・ド・ボーヌと呼ばれていて(そのまんまだけど)、ワイン通の間でかなり有名。ホスピスなのになんでまたワインなのかというのは後ほど書くとして。
圧巻なのは「貧しき人々の部屋」と呼ばれている部屋。礼拝堂を思わせる大きな部屋の中、両端の壁を縁取るようにベッドが配置されている。部屋そのものが神の存在を常に意識させる環境になっていて、真っ白なシーツと真っ赤な毛布できっちりと作られたベッドがずらりと並んでいる様子は、感動するほど美しい。
このホスピスが建てられるまで、労働階級の人達が入るような病院では、ひとつのベッドに病人が二人・三人というのが普通だったらしい。ここではちゃんとひとりにベッドひとつ。しかも、プライバシーが保てるようにカーテンもついている。
個人の所有物を保管できる引き出しや、ベッドサイドで聖書や飲み物を置く小さなテーブルも、患者ひとりにひとつずつ与えられた。
床にあった排水口(多分)。創立者ニコラ・ローランのイニシャルだと思うんだけど、どうもよくわからない(爆)。
ホスピスの建物は、中庭をぐるりと囲むように配置されている。回廊は広く取ってあり屋根もついていて、椅子に座ってゆっくり読書でもしたくなるような場所だった。立って歩ける入院患者たちは、新鮮な空気を吸いにここに出てきたのではないだろうか。
中世の建築様式に、カラフルなタイルの屋根。写真では何度も目にしていたけれど実物はやっぱり美しい。飽きた息子が先を急ごうとしていなければ、あと三十分でもじいいっと眺めていたと思う。
聖フランチェスコの像だろうか(確認できず)。
ホスピス・ド・ボーヌには薬を調合する部屋もあった。調剤するのは尼僧の役目。鹿の角の粉末とか、うなぎの目玉とか、海綿を燃やした灰とか、まあそういう薬を作っていたんであるね。
この右側のは、なんとなく怖い。Terebenthinaはテレビン油、Sulfreeは硫黄。瓶は素敵だけど。
さて、ホスピスなのになぜワインで有名なのかという話に戻る。ここから先の写真はホスピスの外、ボーヌの街中のもの。
創立者のニコラ・ローランは、このホスピス建設に財産を投じただけでなく、後の運営資金源になるようにと、私有の葡萄園も寄贈した。葡萄酒の売り上げを病院の運営に使おうというわけね。葡萄は毎年採れるから(そして葡萄酒の需要はまず減らないから)、永久資金源が確保されているというわけだ。うーん賢い。
このニコラ・ローランという人物、実は色々評判があったらしい。そもそもこういう場所に入院しなければならないような貧しい階層が存在したのも、ローラン自身の財政策が大きな理由のひとつだったと言われている。ホスピス建築に財産を投じるまでは随分贅沢な暮らしをしていたようで、天罰を逃れようと大金を寄付したのだと、当時悪口を叩かれたそうだ。
でも何にもしないよりよっぽどえらいんじゃないのとワタシは言いたい。例えばバチカンの歴史なんかを読んでいると、自分と親族の栄光と利益しか頭にないひどい聖職者ばかり。汚職・堕落・不道徳は歴史につきものでなにもバチカンに限ったことではないのだが、神に仕える身分であるはずなのにこの汚れっぷりはなんなのと言いたくなる汚れっぷりなんである。
反してローランの意思は、純粋に崇高なものであったかどうかは別にして、現在にまでずっと受け継がれて立派に社会の役に立っている。組織的宗教というのは概してよく思われないことが多いが、オスピス・ド・ボーヌは、宗教が持つ社会への直接的貢献要素のとてもよい例であるとワタシは思う。
オスピス・ド・ボーヌ所有の葡萄から作られたワインは、毎年11月に競売にかけられる。慈善目的なので実際の値打ち以上の値段で落とされるわけだが、この落札値段がその年のワイン相場に大きく影響するという話も聞いた。
ボーヌで個人的にちょっと残念だったのは、思い通りゆっくりできなかったこと。街並みは素敵だし、ワイン博物館とか面白そうな場所は他にも色々あったんだけど、こういう街はやっぱり子供には退屈なんである。
ワイン試飲のはしごなんて子供は興味ないどころか参加できないし。「ふくろうを追え!」ツアーとか美術館とか、ディジョンには子連れでも楽しめるものがあったんだけどね。ボーヌは楽しむ街ではなくて、味わう街。
大人向けの街。
早足だったとは言え、行く機会を作れて幸運だったと思う。
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